昭和46年10月06日 朝の御理解



 御神訓 一、「わが身は わが身ならず みな神と皇上との身と思いしれよ。」

 思い知ると言う事又は思い込むと言う事、それをそうだと思い込むと言う事、疑いを挟まない確かに成程神様の命であり、成程神と皇上との身であることを思い知ると言う事、又思いこむと言う事、又神様もそれを思い込ませようとなさる働きを私共にいろいろと下さる、いわゆる神様に賜わった命、ですから私どもは本当に賜わった命と実感する、そこから教祖様の御詠にある様に『賜びし命あるありて今日も目覚めたり、目覚めし事の有難さかな』と言う事になるこです。
 只此れはもう理論じゃないですね理屈じゃないです、本当に賜わった命だと、本当にそれが分った時に、目覚めた時の有難さと言うのはいよいよ有難い、尊いものとして頂ける訳です、それがお話を頂いて理論の上でほんにそれはそうだなと、言う事が分るだけでなくて、それがね思い知られると言う事、それがね思い込まれると言う事、それが尊いのです、ですから体験を積んだ上に積んで行くと言う事、此処に神と皇上との身と思い知れよとある、これは戦時中等はこの御教えは非常に言うなら巾をきかしたんですね。
 ですから教会のポスターが下がってましたよ、神様の所謂天皇陛下の身と思い知れよと、そして現在の様な時代になって参りますと、そう言う様な事があってよかろう筈がない、同じ人間同志だと言う見方をする様になったんですね、もう現人神と言う天皇陛下と言わない、けれどもこれは私はわかりませんけど、毎朝こうして三時半に出てから天地を遥拝します時にですね、天地を拝まして貰うその真中を拝むときですね。
 もう現在天皇陛下と皇后陛下と御旅行中で御在りになりましょう。その御姿を必ず頂くですだから真中頂く時には、天皇陛下、皇后陛下、金光家ですね、それが一つになった様な感じで拝むです、ですからそれは私は分かりませんけど、矢張り天皇陛下の御先祖を天照皇大神と言う風に、思い聞いて来ましたですかね、皇室の御先祖は天照皇大神だとこう言う、と言う事はどう言う事かと言うとね。
 いわゆる神と御一体と言う事ですよね、なら教祖の神様が天地金乃神と同根なりと又、この方か祈る所の天地金乃神は天地と一心とこう仰るでしょう、ですから此処では神と言う事は教祖の神様と言うてもよい訳です、教祖の神様は天地の神様と一体なんだから、なら神と皇上と書いてありますから、いわゆるすめらみことこう言う、天皇陛下、天皇陛下でも御先祖は天照皇大神だから、天地乃親神様と同じだと見て良い訳です。
 ここはだからあまり理屈を、此処は経典から やらもう一つ国のためなり君のためなりと言う御教えがありますね、それとこれとは教典から抹殺せよと言う声すら有る位です。けど決してそんな事ではない教祖様が教えられとるのにそんな、切り取らにゃんとか、削り取らにゃんと言う事が有ろう筈がない、頂き方をもっと大きく大きく頂いたならばわかるんです、ですから今日はそこんところは神一体と頂いて、だから神と皇上とのと言わんでも、神様の身と思い知ると言う事。
 わが身はわが身ならず、皆神の身と思い知れよ、と言う風に頂いて行く、その神を幾つにも分けると、天皇陛下になったり教祖の神様になったりするのである、けれどもそれは一体だと言うまあ天照皇大神様は天地金乃神様と同じだと私は解しております、ですから同じなんです、だから此処は神一体で良いのです、只問題はわが身は神の身であると、思い知らして貰い思い込まして貰うところから、大変に視野が広くなって来る訳です、それを私ども信心さして頂くものは特にです。
 神の身と思い知れよとおっしゃるが、本当に神の身と思わねばおられない様な働きを色々と下さる訳です。これは段々信心を進めて参りましてから、思います事はこの頃から私は口が少しそぜとりました、それでこれは蜂蜜が良いとこれは医学上でも、胃がただれたりしますと蜂蜜を沢山頂きますがね、ただれが治ると言うそう言う学説なんです。けれども学説以上の事があると言うのです、これはわが身がわが身ならず、神の身と思い知らして頂いたらですね。
 そんな蜂蜜やら薬がね効く様では、まだ本当に神の身とは思い知っていない訳ですよ、だからここで大変な開きと過程がある、昨日丁度四時の御祈念が終わってから下がらして頂いたら、北野の秋山さんと福岡の古屋さんと御理解を頂いておられた、今日の御理解は大変な御理解だったから、裏に下がったけど又こちらに出て来てからですね、いろいろお二人にお話したことでしたけど、例えば古屋さんが言われますのに、親先生が御結界に座っておいでられるとね。
 それがもうどんなに見ても生き神様に見えると、特に耳のここんところにですね丁度耳輪を付けた様に光る、何遍頂いても私は不思議で不思議でたまらんと言う様なお話がありました、二、三日前、夜の御祈念御無礼しとりましたら、丁度夜の御祈念に熊谷さんがお参りになりました、もう毎晩の事で朝晩参って見えるけれども、御結界に座って今日は親先生お座りになっとられるなとこう思うて、一寸御祈念をさして頂いて一寸頭を上げたらそれこそ厳然として親先生が御奉仕になっとられる。
 しかも後光がさすと言うかとにかく光り輝く中におられた、それを見上げて何遍見てもそうだ、と私は不思議で不思議でたまらんから、上野先生にこうだったと言うてお届けさして頂いたと言うてお届けさして頂いたと言う、そう言うのは非常に最近幾人の方からそれを聞きました。そんな話しを古屋さんされますからね、例えば昨日の御理解を頂いて光橋先生の例をとって話さして貰いましたが、貴方方の信心も只二十年続けられたけども、こう言う風に続いていないと、成り行きを大事にすると言う事をね。
 その様に素晴らしく受け止めて居ないでしょうが、だから今からでも遅くないから受け止めて、親先生が頂いておられるものは感じておられるものは、こう言うものだろうかと一つ見本の様なものでも良いから、頂かなければ馬鹿らしい、今貴方が古屋さんにですね、頂いとられる様に例えば最近の親先生の御神格と言うものはもう、どんどん進んで行かれとる、してみるとです
 あなた方の信心がぐずぐずしよったらね、もう距離が遠くなってからもうどうにもならん事になって来るよと、例えば私どもが三代金光様の御自体にお参りさせい頂いて、余りもの距離があるからどうにも出来なかったでしょうがと、何をお届けしてもハイハイだけで、言わば解決もついておったが、その頃はハイハイの意味もわからなかった、あれには千万言を尽くしてもたりない位のものが、あるわけです。
 大体言うたらあのハイハイの言葉の中には私はどん どん神様に近かずいてゆきよれば、あんただん何時までもぐずぐずしよるなら、愈々もってあの手がとどかんごとなるばい、しっかりせにゃとまあ冗談に話した事でありますけれども。此れはあながち冗談だけではないです、本当に師匠が頂いとる信心を身につけにゃ駄目です、師匠がこんな信心じゃったと知っておっただけでは駄目です、それを私は見事に光橋先生は、それは大と小の違いこそあれ見事に頂いて行きよる事を、私は昨日力説しました訳ですよね。
 ちっとはこれは褒めすぎたろうか、私は後から又何べんも聞かせて頂いたけれども、聞かせて頂けば頂く程成程光橋先生は素晴らしいところを頂き続けて来たなと、矢張り思いました。さっそこでです皆さんがそう言う信心をなさって、おいでるところからです、いうなら薬が利かん様にならなければ嘘です。
 いや薬を飲んだらかえってひどくなると、これはだから高められたものでなければ、わからんですよある意味では、此れはわたしいろいろ感じることがありますけれどもね、もう此処に奉仕しておってからもうてんで、腹がだんぎりするごとちよっとの瞬間だけれども痛いことが有るです、それで金光様と称えたら瞬間になおっとりますけれどね、そう言う時に痛いとか痒いとか言うのはもう本当に神様が自由自在にお在りになると言う事です、薬とかそういうものは絶対必要じゃないです。
 けれども信心がまだ程度が低いから、薬を飲むのであり薬が効くのである。それを神様が段々高められた人にはです薬なんか言うものは問題じゃない、いわゆるこの命はね神のものだとしての働きがある訳です、いうなら命は神が作ったんだとこの体はだから神様か゛痛いも痒いも自由自在におありになると言う印を見せて下さると言う事なのです。だから迂闊にですね、例えば私が口が悪いからと言うてその蜂蜜をつけたら、二三日小さい物に入れてつけとりましたら、つうの出来てから反ってこうはれましてね。
 そげな事は医学上から言うたら、そうじゃないはず本当は効かにゃならん筈です、けれどもね医学でそこには医学以上のものがそこにあると、それを今日は皆さんに分かって頂こうとおもいます、我が身はわが身ならずと言うこと、神様の頂きものであり、神様の賜りものでありいやこの神様がこの命この肉体もお作りなったんだと言う事をです、思い知れよである、思いしらなければいかんそれを思い込ませて頂く、そこでまた神様は思い込ませるために、いろいろな働きがあります。
 言うならそこが痛いの痒いのがです、そう言う一つの働きです、だから神様一心にお縋りさせて頂くところからです、成程薬のくの字もいらんな、注射の一本も打つ事はいらんなと言うことが分かって来るのです。これはね信心を高めて行かなければ分からんです、だからここは私にして言えれる事なんです、だからかけ放れてきよるわけです、皆さんと我が身でない事を思い知りそれでもも迂闊にね、自分の体のごと思うて、痛いとか痒いとか言うとる訳です。
 けど本当の意味でまだまだ思い知っていないのであり、思いこんでいないのである、ですから痛かったり痒かったりするのです、それをそう言うものではないんだぞと言う事をです、わからして下さる働きがね、今申します様に別に薬をつけ様と思った訳ではないのに、蜂蜜をつけた事が結果悪かったと言う事、そげな事です、だから皆さんの場合は良くなるのです、けども私の場合はようならん、もう本気で思い知れよ、思い込めよと言う働きがあることを感じます。
 以前椛目時代はいろんな事がありましよね、胃のお願があると誰か胃の悪い人が寄って来るばい、どんこん胃の悪うしてたまらんと言いよると、ちゃんと胃の悪い人が参ってくる、ではあんたは胃が痛いとですなと言うとやはり胃が悪い、肺病の人が参って来る前には、何か肺に異常を感ずる、体の色んなところに、頭がこう割れる様に痛いと言うと、所謂頭の病気で参ってくる。
 そう言う事がですね神様にお届けすると私の病気は治るとですからね、だから病気ではないで、神様が痛いも痒いも自由自在になさる、なさる筈です、自分がつくんなさったとじゃから、それを私どもが、未だ思い込みきらんところにです、薬もいるのであり御神米もいるのであり、御神酒も要るのである。本当言うたらお神酒さんも御神米もいらん。ですから皆さんのところは私が今話しとる事はある意味では手が届くまいけども、ほうそげなものかとわかって貰わにゃいけんと言う事です。
 これはもう本当にそうです、神の身と思い知れその本当に思い知れた時にです、『賜いし命在るありて今日も目覚めたり目覚めし事の有難き哉、』と言うそれが実感として頂けられる、神様が今日もお生かし下さたんだと言う、理屈の上ではすぐわかる事です、又私どももそう又皆さんもそういよんなさる、けど実感としてわが身ならずと言う、神の身であると言う事、神様の命であり体であると言う事がわかる、そこまで頂きますとだからそれに向かって一歩一歩づつ近かずいて行くと言う事が信心なのです。
そこにもう一切の道が開けてくる、ここが分ったらこれを自分の実感出来る様になったら、それが思いしらされたら、思いこめたら、今日御神前でこう言う字を頂いた、(芳)とも読めば(芳)よしとも読むですね、草冠に方と言う字が書いてある、これはもう皆さんが御理解頂きよんなさいますから、芳と言う字はかんばしいとも読む、もう素晴らしいと言う事です、草冠と言う事は自然、自然に任せる、成り行きにまかせる事の素晴らしさと言う事なんですよこれは。
 そう言うお知らせを頂いてから、私は今日はわが身はわが身ならず、神と皇上の身である事を思い知れよと、だから頂いたんです、金光大神と天地金乃神様と御一心である様に、天皇陛下と天照皇大神が一心で御在りになる様に、だから教祖様即天地金乃神様、天皇陛下即天照皇大神と言う風に頂いている、しかもその神様の身と思いしれよと、私どもの身は私どものこの体は、その神様の御体であると言う事、神様の分身と言われとりますが、神様の御体の一部分です。
 私どもは。神様が薬を飲みなさるはずもなからなければ、注射をなさるさ筈がないでしょうが、ですからこの身にも注射にも薬にも、言うならば効かんと言う程しのおかげを頂かにゃいけん、私はそう言う意味でおかげを頂きよる訳です、蜂蜜をつけたらかえってただれた、ただれが治らなきゃならんとが、それはどう言う事かと言うと、わが身とではない事を、思い知らせて下さる働きなのです、だから私どもはそこらへんに焦点を置いて心がけておりますと、かならずそう言う働きがあります。
 けれども私どもはその信が薄いから、その信がないから薬も要るのであり、また注射もいるのであり又は注射や薬は要らんと言うても、もう私の方はお神酒だけで御神米だけでおかげ頂いとる、と言う事になります、けれども本当を言うたら御神米も御神酒も御神水もいらない、程しのところまで言うなら神の身とわかったら、それが思い込めたら、思い知らされたらそう言う事になるです。
 そこで私どもがそう言う素晴らしい事を稽古させて頂くために、この芳の字にならなければいけないと言うのである、草冠に方の字いわゆる自然にゆだねる、任せると言う稽古を様々な、場合にさして頂く訳です。これはもう二十何年も前の話しですけども、福岡の或る所にお話しに行った時に、沢山の人が集まっておられた、その中で法学士の肩書きを持った、肺病でもう生きるか死ぬかと言う様な病気から、金光様の信心によっておかげを頂いてから、もうじっと起き上がってから話しを聞きに来る位になられた。
 私の話しを聞いて私は薬も注射もせんと言う話しをしたんでしょう、確かそれで話しが終わってからです、今貴方の話しを聞いて見ると医者も薬もいらんごと言いよんなさったですが、それはどう言う意味でどう言う事ですかと、教祖様は祈れ薬れと仰る、薬れ祈れにするからおかげにならんと仰るから、神様に祈って私は段々おかげを頂いて行きよるが、あなたは薬もいらん様に言いなさるがどうですか、と言う質問があったです、それから私はなかなか御返事はできませんもんですから。
 すぐに返事は出来ませんもんですから、それから一寸待って下さいお伺いして見ましょうと言うて、それから御神前に出てからそれから神様にお願いさして頂きましたら、丁度支那で饅頭と言うのがあります、ここでは饅寿と言いますが大きな饅頭をね、まんとう、ふかふかしたばかりの饅頭をね頂いたんです、まんじゅうです、此処らあたりは酒饅頭とも言いますね、あれをふかし立てのポッポッするのを頂いたから、私はどう言う風に御理解づけたら良かろうかと思うたら、席に戻れ話しは神が出してやると言う事を頂いたものですから、応接台の前にこう座らせて頂いたら、その御理解がですね。
 例えば今ではほとんど饅頭は薬饅頭ですね、薬饅頭も美味しいけれども自然の例えば酵母菌を使って自然の支那の饅頭。ですねメリケン粉を練ったやつを一晩くどの淵にですね、かまどの淵に置いておって醗酵させるのです、その醗酵させたのをまぜてあんなふっくらしたのが出来るのです。ですからそう言う薬饅頭もおいしかけれどもそういう自然を利用すると言うかね。
 自然の働きをそのまま頂いて作る饅頭は芳しさが違うでしょうが、美味しさが違うでしょう、片方のは薬を使ったのですから重素をいれたり、ソーダーを入れたりしてして作るのはです、ふっくらとふくれるけれども何かしら薬の臭いがしたりして、いかんでしょうがと言うたら、もうああわかりましたと言われた、私より先にわかんなさった様な感じでしたよ、だから芳香と申しますからね。
 芳香とはかんばしい香りと書いてある、もう芳香をはなつ様なね私どもの日常生活であらねばいけないと言う事、信心さして頂く者は段々そうなってゆかにゃいけん、それが成り行きを大切にさせて頂く事、そこに例えは゛光橋先生の場合の様にです、もう本当に芳香を放って行きよる訳です、芳ばしい迄の香りがね、信心の香りがもうついて来ると言うかんじ、それには先ず私どもが神の身を思い知らしてもらわにゃならんと言う事、そこで例えば薬をのんじゃいけんのじゃない。
 それには但しここんところ自分が思い知っておる事が、まだ薄いから祈れ薬れは薬が効くのであり、注射が効くのである、けれどもその薬や注射がきかん様になった時には、もう自分がおもい知れるか段々わかって来たときです。これは私の体験から言うと、また事実そうだと私は確信します、だから私の体にはもうその薬やらは例えばもう注射やらはもうきかんと言う感じです、だから本当に効かん様にならにゃいけん、そう言うしるしが昨日申しました様にね。
 この頃から文男さんが或る薬を買うて来て下さった、それをお願いしてつけさして貰うたらよかろうごとあったけん、と思うたけれども矢張りかえってひどくなった様にもう私の体にはですね、そう言う御神酒を頂いたり御神米を頂いたりするところまで、位ですけれどもね本当言うたら御神米御神酒さんもいらないと言うところまで、この神の身と思い知れる様になったり、思い込まして頂く様になったら有難いですね。
 その言わば手じかな稽古が成り行きを大切にすると言う事なんです、いわゆる芳香を放つ程の信心生活ができる、何とはなしにあの人のそばによると後光がさしよるごとある、光りを放ちよるごたる何と言うか徳の香りがしとる様な感じがする、そう言う人の場合はこの芳と言う字ではなかろうかと言う感じです。自然の成り行きを大切にすると言うことはそう言う素晴らしい稽古なんです。
 本当に成り行きを大切にすると言う事はそれは素晴らしい事です、それは饅頭を作るとでも一寸重素を使った方が早い事は早いです、けれども芳香が生まれて来ない、それではだから目先の先のことは言いなさんなと言われる訳です、これが後々になるとあぁあれがおかげであたなと分かる事は、もう本当に素晴らしい事です、目先目先の事はいいなさんなと神様に委ね任せてからの信心生活、御事柄であるならば必ずそれは素晴らしいおかげになって来ると言う事。
 その素晴らしいおかげと言うのが私は今日は、芳香をはなつ程しのおかげだとこう頂いておる訳であります、だからここんところは理屈を言わず、皆神と皇上との身と思い知れよと言うところは、そう理屈言わんでよいですね。私は皆さんに聞いて頂いた様なところを、私は信じられたらそれで良いと、神とは教祖様、天皇陛下が現人神と昔は言いよったが今はそうじゃない。
 けれども御先祖は矢張り天照皇大神と言うことになればね、天皇陛下は拝まんでも天照皇大神なら拝めるじゃないか、だから一体なんだ神様は教祖の神様も天地金乃神様と同根であるから、教祖の神様と天地金乃神様とは一体である、だから私ども金光様の信者は信奉者はいわゆる、私どものこの命はねいわゆる金光大神に帰依し奉ると言うこと、帰依すると言う事、金光大神に差し上げると言う事。
 差し上げると言う言葉はまだありませんね、実を言ったら自分の体ではないのだから、一体になると言うこと、んならそこで皆さんが金光様任せといったり、親先生任せと言うことはおなじことが言える訳です。もう私の命であって親先生の命なんだだから親先生に任せてある、親先生が自由自在に私を使って下さって文句は言いません言うのが親先生任せである、そう言う親先生任せの行き方から、どう言うおかげが生まれて来ておるかと言うことは、皆さんの体験からおして見ればわかるでしょうが。
 それをもっともっと蜜なるもの、もっともっとそれを思い込みであり、思い知らせて行くところにです、信心のいよいよ素晴らしいところにでることが出来るのです、今日は一つ私が頂いた芳と言う字をねよく思うてみてください、もう自然の方へあるがままになるがままに、もうどうなっとなろうたいと、言う様な投げやり的なものでは決してない、神様の働きが、神様が左の方へ押す様にして下さるから。
 左の方へ行くのであり右の方へ招いて下さるから右の方へ行くのである。水が高い所から低い所へ流れる様に、そう言う行き方の中からね、いわゆる神様任せの信心生活と言うものがです、どの様に素晴らしいかと言うことを身を以て体験して行くことが出来る、段々そこんところが段々おかげ頂いて行きゃ、言うならばもう薬が効かん程しになって来る、いや効かんところじやない。
 薬を飲むとかえって悪いと言う様な働きすら起きてくる。有難いですねそして自然の中にいつとものう治ってしまっておる、健康に復しておると言う様なおかげ、大変問題の御神訓ですね『わが身はわが身ならず、皆神と皇上との身と思い知れよ』と、だからこうゆう御神訓は現在の金光教の教典から抹殺しろとまで言う人があるけど、こうして御理解を頂いてみると、どうしてどうしてそんな事じゃないですね、いわゆる教祖様の教えの深さ広さには只只驚くばかりです。
   どうぞ。